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大和魂と世界和平

大和魂と世界和平

もくじ




太古から現代における「宗教の歴史考察」


世界一の歴代を誇る日本の天皇の世界的位置づけは、天皇≧ローマ法王>王(英国女王など)> 大統領>首相となっており、外国では天皇陛下を、皇帝を意味するエンペラーと称号されている。ローマ法王は紀元後カリック教が出来てからであり、イギリス女王もイングランド建国からであるが、神話時代から現在にまで続くエンペラーは世界各国から畏敬の念をもたれ続けてきた。

日本の歴史を遡ると、少なくとも古事記などに示されている神話にまで遡ることができるが、東北大学名誉教授の田中英道氏は、世界の神話は時代背景が不明なのにたいして、日本の神話は歴史に散りばめられている点、全く外国のものとは異なる点を指摘し、神武朝の時代以前にも、大和国とともに祝詞にあるように関東に日高見国が存在したと主張し、またそれは「日出る国」として語り継がれてきた所以であるとしている。

「武内文書」では神武天皇以前の歴史が記されている。天皇は神人であり、富士山、立山などの山上に皇居という御宮を構えていたのであるが現在もその形跡がうかがえる。創造主の御啓示によると、数千年前の太古では度々洪水が起こったために天皇は山に御宮をつくられたそうである。また、武内巨麿のブレーンと呼ばれた酒井勝軍(1874-1940)は著書「太古日本のピラミッド」のなかで、ピラミッドの役割は天照日神の拝殿であって、頂上には必ず太陽を象徴する太陽石とその周囲には石が規則正しく並べてあるという。日本でのピラミッド第一号は広島県商原市の葦獄山であり、立山連峰の雄山もそうである。いずれにしても、生きた神であった天皇(当時はスメラミコトと称する)を拝んでいたのである。

そして天皇の御宮以外には、皇室と関係のある神人を祀った神宮、大地域にはそれを管轄した神人を祀る神社が出来て、ま小地域の村では氏神神社が出来ていった。神々様もお働きの違いと階級があって、それらに応じて人を守護する範囲があるということである。

なお氏神神社というのは、特別な場合は神格を得た神人が祭られていたり、特定の氏が祀られたのであるが、たいていは太古において神格を得たその村の大先祖であって、いわゆる自然発生的にできたもので、つまり原始の自然宗教である。氏神様は祭事場で祭られ、村人たちはその先祖から生活に密着した御神託をもって会議をひらき、村を平和的に運営をしていたのであるが、そうしたことは三内丸山遺跡地などにみる生活様式から広く認知されたところである。また武器は遺跡から発見されなかったのである。そうして氏神神社は地域によって、主宰神はもとより様々な違いや特徴があった。

なおこうした時代は神代と呼ばれているが、神代の終わりの時代について書いておくが、創造主よりの御啓示(日本初の創造主による啓示書「文明の創造」)によれば、もともと日本の神であった素戔嗚尊を朝鮮統治に任にあたらさせていたが、武力に長けた素戔嗚尊は日本を占領しようとして、中国の瓊々杵尊とともに日本に出雲より上陸し、素戔嗚尊は出雲を拠点にして(近年、出雲の遺跡から銅剣360本弱が発見された)、大和民族の祖である伊都能売天皇の座を狙って、主権を渡さなければ民の命を奪うとして脅したので、また部下や民は武力におののき傍観、保身に走ってしまったため、天皇は時を覚られ御隠退されたのである。当時の日本は同天皇が徳で治めていた時代であって、武器も無ければ戦争も無かったのである。素戔嗚尊は、後継の天照天皇(天照皇大御神)を殺害し、そうして天照皇后(天照大御神)を隠退せしめて出雲朝の天下となったが、素戔嗚尊の堕落の横暴に出雲朝が弱体化ていたところに、九州に潜んで時を待っていた瓊々杵尊の孫が、四代目素戔嗚尊である大国主命とその息子勢を打ち破り神武天皇として即位したのである。以降1000年は中国の神(天孫系)が支配していたということであるが、さらにその後の歴史は中国系と朝鮮系の争いの歴史であったということである。天照皇后(天照大御神)御隠退以降は日が沈む時代となったが、神の主な本質は日であるため力が発揮出来ずに、神々は仏に位を下げてでも救おうとする神もいたが、たいていは邪神側についたので、闇夜の時代はほとんどの神社も中身は邪神にすり替わっていたということである。確かに悪が暗躍できる地獄的な時代がずっと繰り返えされて、たまに月灯りのような明るさもあったのは史実の通りである。なお、伊都能売天皇はインドに渡り、地獄の暗闇の世では民は精神的に生きていけないので少しでも精神を救おうと、悪憎き世を諦めることや、慰めることを本義として教えを垂れたということである。唯一、徳高き高貴な存在であって不思議な神力を持っていたので、そのことは般若心経のサンスクリット語原本の序文や、釈迦がこれまでの教えは間違いであってこれから説くのが本当であるとして説いたところの法華経のなかの二十五品などに多々示されている通りである。
こうしたことを「古事記」に記せば命がなかったということである。

そうして、1000年間は日本を占拠した中国系の天皇が騒乱もなく穏やかに統治していたのであるが、この間にも史実を残して中国系の天皇に捧げたのが、古文書「ミカサフミ」「ホツマツタゑ」などである。そのため瓊々杵尊を優れた神人として扱い、また出雲系の神人たちも多く登場しているのは、都合上、大和系の歴史には触れず、以降活躍した自分たちによる国づくりの歴史に重きを置いたからではないかと推測するが、私が思うに、かつて素戔嗚尊の生まれ変わりの出口王仁三郎師による教えの出し方とも似て、真理も多分にあるがやはり自分の系統を主たるものにして広めたものと考えているが、古事記と同様、仕方のなかったことと推察される。こうしたことも創造主が深遠なる御目的のもとに動かされことであって、善とか悪とか問えるものではないことを銘記しておきたい。すべて善悪を超えたところの御計画上、必要なことであったということである。なお、創造主の御啓示では、瓊々杵尊のニニギとは「世を握る」という意味であって、中国の英雄的な武将の神だったので武力によって世を掌握したということである。もちろん大和(日月)系の神ではないとのことであるが、天照神の傍系にあたるので、系統は日の傍系である。稀に大和系が生まれて天皇の座についたそうだが、神は血統で引き継がれるのではなく霊統による。そうして仁徳天皇や光明皇后などは大和系であるという。

そうして仏教が伝来され、日本は仏を「外国の神(蕃神)」と捉えて、日本の神と同質の存在と認識していた。そうして神道の巫女のように初めて出家したのが尼であった。そうして漢語仏典の解釈により様々な宗教ができて、これまでの地域的な信仰であった神道よりも仏教のほうが広く日本に伝わっていったが、仏教も教学宗教である。

まもなくして神道は、仏教によって刺激され、神様を祀る神館として本殿拝殿がどんどん作られるようになり、神道と仏教の関係が緊密となっていき、歴史にあるとおり、宇佐神宮(全国の八幡神社総社)を皮切りに神社に附属した寺院(神宮寺)の建立が始まり、気比神社の気比大神の神託で神宮寺が建てられると、全国的に広まっていき、若狭彦神社の若狭彦神(彦火火出見尊と豊玉姫)も仏に帰依するように示したということである。平安京遷都には京都に宇佐神宮から石清水八幡宮が勧請された。ところが、「神は悩める民衆の一種」として位置づけられて、御神前で神を救うための読経が広まったのである。これは邪神を救おうということではないかとも考えられる。

しかしながら、寺院のほうも、寺院に関係する神を「寺院の守護神」として神社を建てたが、興福寺による春日大社建立を皮切りに、東大寺には東大寺建立事業の際に神々を代表して八幡大神が上京したとして宇佐神宮から手向山八幡宮を勧請し、延暦寺に大己貴神と大山咋神として日吉大社、金剛峯寺は丹生神社、東寺は伏見稲荷大社というように、神が仏を守護するという立場になっていった。こうした仏教は大乗仏教である。

神道はだんだんと呪術的要素をもった祭祀を主とする神道、教えを主とする学派神道の態をもったが、大乗仏教の発展により神道離れが生じ始めた。朝廷としては神道が弱ると求心力が弱ると懸念したところに、神道と習合しやすい呪術的要素のある密教が伝わって、神仏習合が強まったのである。

また、釈迦の願い(意味はわからなくても唱えるだけで心慰められたり諦めの境地に至ることができる念仏)と逆行するバラモン式(難行苦行)の熊野信仰などが広まったが、これは難行苦行をして何か高次元の精神的なものを得ようとする修行であるが、その結果はインドのバラモン教が既に示したように、世の現実生活の種々の不幸にたいしてはほとんど救うことが出来なかったのである。

鎌倉時代では、仏の華を咲かせるという本地垂迹説にたいして、「神こそが本地であり仏は仮の姿である」とする神本仏迹説(反本地垂迹説)を唱える伊勢神道などが現れたが、「神の化けたものが仏である」という点は、創造主の御啓示によれば正しいのである。

戦国時代から明治維新までは、仏教同様に儒教とともに日本に伝わった「天道思想」が広まった。天道思想とは、「全ての宗教はもとは一つ」という統一的捉え方をするようになった。これも創造主の御啓示によれば、「一神にして多神、多神にして一神」ということからすれば、正しい捉え方ということになる。そうして戦国武将たちは、「神仏の道に外れることは天に見放され罰を受ける」と捉えていた。

豊臣秀吉がキリスト教布教を容認したとき、長崎がイエズス会領となっていることに驚いて宣教師を国外退去させたが、西洋国がキリスト教を突破口に植民地化していく歴史は今日衆知の事実である。江戸時代にはいり、家康もキリスト教を禁止していたが、キリシタンではないということを寺院に証明してもらう制度をつくったため、民衆は必然的に寺院の檀家となったので、これを「檀家制度」ともいうが、神道の民衆の一部の民衆は、神道でありながら檀家にならざるを得ない状態に不満が募っていった。

明治元年(1868年)、政府は「王政復古・祭政一致」を理想としてその実現のため、これまでの神仏習合と反対の「神仏分離令」を発令したが、これは仏教を排斥することなく、神道と寺院をはっきり区別する目的であった。そのため「御神体」に仏具を備えることや、「御神体」を仏像とすることも禁じた。この発令に、ここぞとばかりに、檀家制度に不満をもっていた神官と国学者が扇動して、全国的に仏像や寺院が破壊された。ところが、いくら国家神道をつくろうとしても、神道を国教化するためは布教経験が無くてはならず、結局は仏教界の助けなくては出来ないこととなり、ここに神仏界共同体制を敷いて、これまでの神祇省を廃止するとともに浄土真宗の重鎮をトップに就かせた教部省をつくり、さらには布教指導をするため宣教道場たる中央機関までもつくり、その教導職には僧侶も任命された。なお、神仏界共同体制はキリスト教排斥の目的も兼ねていた。

この頃から、様々な神の啓示によってできた教学宗教というものが沢山出来ていったが、これら教祖によってつくられた宗教を創唱宗教という。

神仏共同体制で国家神道を目指す明治政府は、近代化をすすめる上で大切なパートナーである西洋諸国から強い反発を受けて、「信教の自由」およびキリスト教解禁を迫られたため、教部省および中央機関の廃止し、内務省社寺局に縮小し「神道は、宗教ではなく道徳である」と解釈した。

明治22年に大日本帝国憲法が公布されて公的に「信教の自由」を認めたが、しかし政策は国家神道を軸にした宗教・政治・教育の一体化にあったので、内務省社寺局は「神道は宗教ではなく道徳である」との解釈を基に「神道・神社を他宗派の上位に置く事は憲法の信教の自由とは矛盾しない」と公式見解を出し、教育については勅令で、全ての学校での宗教教育を禁止し、「国家神道(皇統神道)は宗教を超越した教育の基礎」とし翌年に神道の教えではなく道徳としての教育勅語が発布された。こうして、全ての神社に皇統の御神体を祭らせることで国家神道として統一し、全国の神道のトップに天皇を位させ、国民を国家神道の氏子としたのである。これには、キリスト教の反発と、政教分離を主張する浄土真宗の反発が生じた。しかし、本当の大和系の教えは崇高で、武力や金力で国を治めるのではなく、徳によって治めるのであるから、かつての縄文時代のように政教一致が本当の国家体制であるべきと考えるが、取り巻きが悪いために政教分離を唱えざるを得なかったのであろう。なにしろ神の教えを道徳に摩り替えて、それを国家神道とする全く意味のわからない逆さま事をやって、天皇を祭り上げたのである。

こうして天皇にたいしては、軍部のなかでも海軍と陸軍による実権争いがあって、世は軍閥が欲しいままにする世になっていった。そうしたなかで、アメリカが日本を兵糧攻めにするという情報をキャッチしたのをここぞとばかりにパールハーバーを攻めたのであるが、このことは近年、アメリカ国の情報公開で衆知のことと思う。

しかし敗戦によって、アメリカによって特権階級が解体され民主化に進むこととなったのであるが、昭和天皇はこのことを後にアメリカを訪れたときに謝辞を述べ、世界を驚かせた。一方、マッカーサーは宗教教育による日本人の結束力の比類無い強さに恐怖に感じ、敗戦の落胆に乗じて「これまでの宗教教育は全部間違いである」として、日教組をつくって徹底的に唯物的学問教育を刷り込ませていったのである。この唯物主義の力で著しい西洋式の経済発展を遂げたのである。しかしその一方、精神と生命の犠牲は大きかった。神仏のいない生活となって、日本国民の精神性は廃退していき、形骸化した道徳をかろうじて保ちながら大人から子供まで学問偏重教育、経済至上主義の唯物社会にしがみ付いて生きているのが現実生活ではないだろうか。また西洋食、農薬や化学肥料、医薬といった西洋式文化を取り入れた結果、アメリカ同様に病気大国となったことは生命にかかわることである。なお、こうしたことも善悪を問えないのであって、すべては「時」であると思う。エピソードとして、経済路線ではなく軍国路線になる契機があったのであるが、中曽根元総理の話では、これも衆知されていることだが、朝鮮戦争が起こり日本の危機となったとき、ダレス国防長官が吉田首相に核の再軍備を二度要求したが、断って経済による国力強化を優先したために、アメリカのように戦争国家とならずに済んだのである。こうしてみると、日本は、大切な精神と生命を犠牲して、高度な物質文化国家となったということが言えるだろう。

なお戦後、天皇家は皇統神道となり、かつての神社神道と切り離したのである。そうした流れを以って、現在の天皇の最たる役割は祭祀王とよばれるように、皇室神道によって国家国民の安寧と繁栄を祈願する国家鎮護の祈願となっている。

改めて一連の歴史を振り返ると、「宗教とは何か?」「国家神道とは何か?」を考えなければならない問いを残したものと思う。それは、創造主より大和系の天皇と知らされている平成の天皇陛下のお働きとその姿勢を改めて振り返ることで、少しでも答えを見出せるものと思う。





昭和天皇の、命に代える責任感


■ 東條氏とハル・ノート

まさに世界は弱肉強食時代のなか、日本は日独伊三国同盟を結んでいたが、同盟はアメリカを仮想敵国と決定したため、アメリカは日本にたいしてガソリンや鉄クズやゴムなどの重要資源を輸出禁止とする経済制裁をとった。日本は、アメリカと戦争をして打開する国力は無いため、日米交渉により戦争回避をしつつ、重要資源の確保を考えねばならなかった。日本の植民地は、日清日露戦争時代から心血を注いでつくった満州国、その他の中国の地域に駐在し、フランス領インド(インドシナ)の北部であった。
アメリカもイギリスを支援する必要があったので、戦争回避のための日米交渉に乗った。

1941(昭和16)年4月16日から、日米開戦を回避する目的で、日本側は駐米大使野村吉三郎らとアメリカ側の国務長官コーデル=ハルらとの間で、約50回にわたって交渉が行われた。

アメリカからの通告は、日本は、中国および東南アジアからの撤退、満州国は別に話し合うという内容であった。

のちに東京裁判でのパール判事は「アメリカが日本に送ったのと同一の文書を他国に送れば、非力なモナコ公国やルクセンブルク公国でさえ必ずアメリカに対して武力をもって立ちあがっただろう」と述べた。

交渉中に、独ソ戦が開始されたのを機に、東条陸軍大臣らは武力に訴えるべきと唱えて、資源確保のために、そしてフランス領インド(インドシナ)の南部に進出し駐在したが、周辺国は脅威に感じた。周辺にはアメリカのフィリピン、イギリスのマレー半島とシンガポールなどがあるが、フランス領インド、オランダ領インドシナ(インドネシア)については、ドイツがフランス本国もオランダ本国も占拠していたので、同盟国の日本には敵国ではなくなっていた

日本のてフランス領インドの南部進出に対抗して、アメリカはアメリカ国にある日本資産を凍結、石油輸出を全面禁止した。木戸大臣は東條を首相に推して独断で天皇に承認をとりつけた。理由は、戦争回避のために、対米開戦の最強硬派であった陸軍を抑えるのは東條しかなく、また天皇陛下に忠実であるためであった。

東條は皇居での首相任命の際、天皇から対米戦争回避に力を尽くすように直接指示され、開戦派的姿勢を直ちに改めて、「和平だっ、和平だっ、聖慮は和平にあらせられるぞっ」と叫びながら歩いたという。「交渉妥結の可能性は充分にある」と自信をもっていたが、交渉は難航し、とうとう東條内閣は、期限を設けてそれまでに交渉決裂となれば開戦することを決定をした。

駐日大使ロバート・クレーギーは帰国後、アメリカ政府に「日本にとって最大の問題は南方進出では無く耐え難くなりゆく経済封鎖を取り除く事だった」と報告した。

ハル国務長官は、最終案を提示したが、これが日本で通称「ハル・ノート」と呼ばれるものである。中国、インドからの全面撤退し、日独伊三国同盟の無効化などというものであった。日本案を問題外とされた強硬な最後通告に、天皇に涙ながらに奉告し、開戦を決意する。そうして東條内閣は開戦を決断した。開戦当日に、東條首相は皇居に一人向かい号泣しながら詫びた。


■ 日本の戦争責任にたいする天皇陛下のお考え

1945年8月29日、昭和天皇が木戸内大臣に「戦争責任者を連合国に引渡すは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が一人引受けて、退位でもして納める訳には行かないだろうか」と述べられた。

■ 8月30日マッカーサー上陸

■ 終戦直後のマッカーサーの天皇陛下への思惑

マッカーサー著「マッカーサー回想録(DOUGLAS MacARTHUR Reminiscences)」

「私が東京に着いて間もないころ、私の幕僚たちは、権力を示すため、天皇を総司令都に招き寄せてはどうかと、私に強くすすめた。私はそういった申出をしりぞけた。『そんなことをすれば、日本の国民感情をふみにじり、天皇を国民の目に殉教者に仕立てあげることになる。いや、私は待とう。そのうちには、天皇が自発的に私に会いに来るだろう。いまの場合は、西洋のせっかちよりは、東洋のしんぼう強さの方が、われわれの目的にいちばんかなっている』というのが私の説明だった。」

■ 9月2日 日本降伏調印式

マッカーサー「われわれは相互不信や悪意あるいは憎悪の精神を持ってここに集まったのではない。むしろ戦勝国もまた敗戦国も共にわれわれが果たさんとしている神聖なる目的に沿いえる、唯一の崇高な理念に向かって立ち上がるために集まったのである。(中略)この厳粛なる決意により、過去の流血や蛮行に終始符を打ち、人間の威厳に献身し、自由、寛容、正義という人類多数の願望を達成するようなより良い世界が出現することは、私の希望であり、また全人類の希望でもある」

■ 9月27日 天皇とマッカーサの会見内容

・1945年9月27日、昭和天皇のご意向でとGHQ最高司令官ダグラス・マッカーサーと米国大使館で会見されることになった。マッカーサーは、当然、敗戦国の国王は命乞いをするので”天皇が命乞いをするためにやって来た(マッカーサー「回想録」)”と考えた。天皇のお供は6人で、会見に同席するのは通訳として奥村参事官のみとなった。マッカーサー側の通訳はバワーズ少佐であった。マッカーサーの意向で会見の内容は公表しない約束となった。会見の時間はわずか三十七分であった。

会見前後について、筧素彦行幸主務官は「先刻までは傲然とふん反りかえっているように見えた元帥が、まるで侍従長のような、鞠躬如として、とでも申したいように敬虔な態度で、陛下のやや斜めうしろと覚しき位置で現れた」と言い、なぜマッカーサーの態度が急変したのか、ずっと疑問をもっていた。

・10年後、重光葵外務大臣が訪米した際にマッカーサーから直接聞いたために、会見の内容がわかったのである。

「私は陛下にお出会いして以来、戦後の日本の幸福に最も貢献した人は天皇陛下なりと断言するに憚らないのである。どんな態度で、陛下が私に会われるかと好奇心をもってお出会いしました。しかるに実に驚きました。陛下は、まず戦争責任の問題を自ら持ち出され、つぎのようにおっしゃいました。これには実にびっくりさせられました。

『私は、日本の戦争遂行に伴ういかなることにも、また事件にも全責任をとります。また私は日本の名においてなされたすべての軍事指揮官、軍人および政治家の行為に対しても直接に責任を負います。自分自身の運命について貴下の判断が如何様のものであろうとも、それは自分には問題ではない。構わずに総ての事を進めていただきたい。私は全責任を負います』

私は、これを聞いて、興奮の余り、陛下にキスしようとした位です。もし国の罪をあがのうことが出来れば進んで絞首台に上がることを申し出るという、この日本の元首に対する占領軍の司令官としての私の尊敬の念は、その後ますます高まるばかりでした」

・アメリカ国立公文書館に残っている記録として、1945年10月27日、ジョージ・アチソン政治顧問代理はマッカーサーから聞いた天皇のご発言について、このようにアメリカ国務省に打電した。

「天皇は握手が終ると、開戦通告の前に真珠湾を攻撃したのは、まったく自分の意図ではなく、東條のトリックにかけられたからである。しかし、それがゆえに責任を回避しようとするつもりはない。天皇は、日本国民の指導者として、臣民のとったあらゆる行動に責任を持つつもりだと述べた」

・パワーズ少佐の証言

マッカーサー「ようこそおいでくださいました」

天皇陛下「私はどうなってもいいが、天皇の名のもとに戦った人々を救ってほしい」

・会見に同席した奥村参事官は、天皇陛下に会見の内容をお伝えするために、宮内省の用箋5枚に記したが、それを天皇にお届けするため、天皇の会見のお供6人の一人、藤田侍従長に渡したが、職務掌握上その用箋に目を通したが、そのとき藤田侍従長はその内容を回想録として記していた。昭和36年10月にその回想録が公開された。

天皇陛下「敗戦に至った戦争の、いろいろの責任が追及されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼等には責任はない。私の一身は、どうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい

マッカーサー「かつて、戦い敗れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、世界の歴史にも前例のないことと思う。私は陛下に感謝申したい。占領軍の進駐が事なく終ったのも、日本軍の復員が順調に進行しているのも、これ総て陛下のお力添えである。これからの占領政策の遂行にも、陛下のお力を乞わねばならぬことは多い。どうか、よろしくお願い致したい」

・昭和39年、半年間にわたって朝日新聞に連載されたマッカーサーの回想録が、マッカーサー著「マッカーサー回想録(DOUGLAS MacARTHUR Reminiscences)」として出版された。

「私は占領当初から、天皇の扱いを粗末にしてはならないと命令し、君主にふさわしい、あらゆる礼遇をさきげることを求めていた。私は丁重に出迎え、日露戦争終結の際、私は一度天皇の父君に拝謁したことがあるという思い出話をしてさしあげた。天皇は落着きがなく、それまでの幾月かの緊張を、はっきりおもてに現わしていた。天皇の通訳官以外は、全部退席させたあと、私たちは長い迎賓室の端にある暖炉の前にすわった。
 私が米国製のタバコを差出すと、天早は礼をいって受取られた。そのタバコに火をつけてさしあげた時、私は天皇の手がふるえているのに気がついた。私はできるだけ天皇のご気分を楽にすることにつとめたが、天皇の感じている屈辱の苦しみが、いかに深いものであるかが、私にはよくわかっていた。
 私は天皇が、戦争犯罪者として起訴されないよう、自分の立場を訴えはじめるのではないか、という不安を感した。連合国の一都、ことにソ連と英国からは、天皇を戦争犯罪者に含めろという声がかなり強くあがっていた。現に、これらの国が提出した最初の戦犯リストには、天皇が筆頭に記されていたのだ。私は、そのような不公正な行動が、いかに悲劇的な結果を招くことになるかが、よくわかっていたので、そういった動きには強力に抵抗した。
 ワシントンが英国の見解に傾きそうになった時には、私は、もしそんなことをすれば、少なくとも百万の将兵が必要になると警告した。天皇が戦争犯罪者として起訴され、おそらく絞首刑に処せられることにでもなれば、日本中に軍政を敷かねばならなくなり、ゲリラ戦が始まることは、まず間違いないと私はみていた。けっきょく天皇の名は、リストからはずされたのだが、こういったいきさつを、天皇は少しも知っていなかったのである。
 しかし、この私の不安は根拠のないものだった。天皇の口から出たのは、次のような言葉だった。『私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした。』
 私は大きい感動にゆすぶられた。死をともなうほどの責任、それも私の知り尽している諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨の髄までもゆり動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても日本の最上の紳士であることを感じとったのである。
 天皇が去ったあと、私はその風貌を妻に話そうとしかけたが、妻はクツクツと笑ってそれをとめ『ええ、私も拝見しましたのよ。アーサー(マッカーサーの子息)と私は赤いカーテンの陰からのぞいていましたの』といった。まことに珍しいことの起る世界ではある。しかし、どう見ても、ほほえましい世界であることは間違いない。天皇との初対面以後、私はしばしば天皇の訪問を受け、世界のほとんどの問題について話合った。私はいつも占領政策の背後にあるいろいろな理由を注意深く説明したが、天皇は私が話合ったほとんどの日本人よりも民主的な考え方をしっかり身につけていた。天皇は日本の精神的復活に大きい役割を演じ、占領の成功は、天皇の誠実な協力と影響力に負うところがきわめて大きかった。」

・ゲリラについて。江戸時代の五人組制度から、明治の隣組制度へ続くものが町内組織である。その全国代表として笹川良一氏がマッカーサーに対し、天皇をどうにかすると日本中の町内組織はQHGと戦うと直談判したとき、マッカーサーは天皇が国民からいかに敬われているかを痛感する。マッカーサーは、「日本人が一糸乱れぬ行動をとれるのは町会組織にある」と判断し、天皇に戦争責任を負わすことは危険だとさとった。

・平成14年10月、外務省は第一回天皇・マッカーサー会見の「公式記録」を公開した。

マッカーサーが約20分「相当力強き語調」で雄弁をふるった後、天皇陛下は「この戦争については、自分としては極力これを避けたい考えでありましたが、戦争となるの結果を見ましたことは、自分の最も遺憾とする所であります」と述べられている。

■ 10日2日 連合国軍最高総司令部(GHQ)創設

・日本軍の武装解除
ポツダム宣言第九項「日本国軍ハ完全ニ武双ヲ解除セラレ」に基づく。

・戦犯者の逮捕
ポツダム宣言第六項「吾等ハ無責任ナル軍国主義ガ世界ヨリ駆遂セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義の新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ主張スル」に基づく。

マッカーサー「東條を捕らえよ。そしてほかのA級戦犯のリストを作れ」」

東條英機ら政治・軍事指導者を戦犯として逮捕することであった。

■ 10月22日 天皇陛下への対処について

昭和20年10月22日、アメリカ本土のSWNCC(国務・陸・海軍三省調整委員会)で、マッカーサーに天皇の戦争責任の証拠収集が命じられた。翌21年1月25日、マッカーサーはアイゼンハワー陸軍参謀総長に報告文を送った。

過去10年間、天皇は日本の政治決断に大きく関与した明白な証拠となるものはなかった。天皇は日本国民を統合する象徴である。天皇制を破壊すれば日本も崩壊する。……(もし天皇を裁けば)行政は停止し、ゲリラ戦が各地で起こり共産主義の組織的活動が生まれる。これには100万人の軍隊と数十万人の行政官と戦時補給体制が必要である」

■ 飢餓にたいする食料支援

総理大臣、外務大臣、農林大臣がマッカーサーにお百度のように足を運んで食料支援を懸命に懇請したが、決して承諾の色を見せなかったと松村謙三農林大臣は回想している。

昭和20年12月頃、天皇陛下は松村謙三農林大臣に「多数の餓死者を出すようなことはどうしても自分にはたえがたい。これを代償としてアメリカに渡し、食糧にかえて国民の飢餓を一日でもしのぐようにしたい」と皇室の御物の目録を渡された。

幣原首相がマッカーサーに会い、天皇陛下のご意向を述べて目録を差し出すと、マッカーサーは非常に感動し、「自分が現在の任務についている以上は、断じて日本の国民の中に餓死者を出すようなことはさせぬ。かならず食糧を本国から移入する方法を講ずる」と述べて、それからアメリカ本土から食糧が送られて食糧危機を脱したのである。

■ 昭和26年4月マッカーサーの任務完了と解任

任務は、日本の牙とるものを徹底的に抜いて、「アジアのスイス」とすることであった。同時に、戦前に占領していた中国、朝鮮、東南アジアの諸国よりも豊かになってはいけないとする「四等国」をつくることにあったために、それを成し遂げて「四等国になった」と述べた。



今上天皇のいまにみる大和魂



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